起業家ジャーナリスト 福沢諭吉

起業家ジャーナリスト福沢諭吉

最近、佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか』という本を読んだ。

その本の最後では、福沢諭吉のことを、「これから求められる『起業家ジャーナリスト』そのもの」と評価したうえで、このように筆者は書いている。

福沢諭吉は、もっぱら慶應義塾大学の創設者として知られていますが、時事新報の立ち上げも歴史に残る偉業です。

1882年、政党の御用新聞ばかりだった時代に、「独立不羈(どくりつふき)ー不偏不党」を理念として、時事新報をスタート。

社長兼編集主幹として健筆をふるい、わずか数年で部数を1万数千部へと押し上げ、「日本一の時事新報」と呼ばれるまでになりました。 

なるほど、これは参考になるかもしれない。

そう思って、起業家ジャーナリストとしての福沢諭吉についてさらに調べてみた。

 

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 時事新報設立の経緯

まず、福沢諭吉の自叙伝である『福翁自伝』を手に取った。

時事新報設立の経緯について、福沢は次のように述べている。

それから明治15年に時事新報という新聞紙を発起しました。

ちょうど14年政界変動ののちで、慶応義塾先進の人たちがわたしかたに来てしきりにこのことを勧める。

わたしもまた自分で考えてみるに、世の中の形勢は次第に変化して、政治のことも商売のことも日々夜々運動の最中、あいたがいに敵味方ができて議論は次第にかまびすしくなるに違いない。

(中略)

政治上にけんかが起きれば、経済商売上にも同様のことが起こらねばならぬ。

今後はいよいよますますはなはだしいことになるであろう。

このときにあたって必要なるは、いわゆる不偏不党の説であるが、さてその不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏するところがあって一身の利害に引かれては、とても公平の説を立てることができない。

そこでいま全国中に、いさら、その身は政治上にも商売上にも野心なくしてあたかも物外に超然たる者は、おこがましくも自分のほかに適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、ついに決心して新事業に着手したものが、すなわち時事新報です。

 

福沢の経営手腕

福沢は、時事新報から「不偏不党の説」を発信すべく、経営を重視する。この点について、福沢諭吉を研究する都倉武之氏は次のように述べている。

当時の新聞人たちは、経営努力というものに関心が薄かった。

彼らは言論を発信する手段としての新聞に多大の関心を寄せつつ、金銭を求めたり商売に聡いことは賤しいこと、とする江戸時代の考え方を併せ持っていた。

しかし、現実問題として新聞を維持するには金が要る。

他の新聞が政党機関紙や御用新聞となって、ある立場を代表することは、経営のための資金をその辺りから得ていることとも関係があったのである。

あらゆるしがらみを断ち、誰にも遠慮のない発言をするとして、「独立不羈」を掲げる『時事』が、経営を重視しなければならないのは必然のことであった。

 

では具体的に福沢は何をしたのか。

最も主要なことは、当時販売収入が多くを占めていた収入源を多角化するため、広告収入の増加を図ったことだ。

たとえば、時事新報の社説で新聞広告が有効な宣伝方法であると説き、自ら広告原稿やコピーライティングを手がけた。さらには広告主に「こんな文章を書けば、もっと読まれる広告になる」と講義したという。

 

ただ一方で、不偏不党の言論を維持するため、広告主と対立したこともあった。

時事新報に週に4,5回広告を載せていた広告主である売薬業者を、薬の効能をめぐり批判。大々的に売薬業者の広告を掲げる新聞も「売薬師の提灯(ちょうちん)持ち」と批判したのだ。

その結果、「売薬は無効無害」という時事新報の主張の核心を、営業毀損とする訴えが東京の売薬業者によって裁判所に持ち込まれ、裁判沙汰になったうえに広告収入を失ってしまった。

この点について、都倉氏はこのようなエピソードを紹介している。

『時事』は、まだ赤字の出ていた時期であり、広告の主任であった伊東茂右衛門はこの騒動で広告が減ったことに大いに不満を訴えたという。これに対して福沢は、「始めたことは今さら仕方がないではないか、これも学問のためだから我慢しなさい」となだめたと伝えられている。

 

広告収入の増加を図った以外にも、福沢の死後経営を引き継いだ次男の捨次郎とともに、福沢は以下のような取り組みをおこなった。

 

・コミュニティの形成:福沢が設立した日本初の実業家の社交クラブである交詢社と提携

・海外報道の充実:英通信社ロイターと独占契約

・書き手の多様化:女性ジャーナリストの積極登用

・コンテンツのエンタメ化:時事漫画の確立

・デザインへの配慮:新聞用紙を桃色に切り替え、他紙と見た目を差別化

・先進技術の導入:イギリスから最新鋭印刷機器を購入

・データ情報の充実:天気予報、商況、物価動向をはじめて新聞に掲載

・コンテンツの二次利用:テーマ別の社説を連載し、終了後は書籍として出版

 

このような起業家ジャーナリストとしての福沢の実践は、事業環境が変化し、旧来的なビジネスモデルからの脱皮を求められている現在のジャーナリズムに示唆と刺激を与えてくれる存在だろう。

 

陰弁慶の筆をいましむ

余談だが、『福翁自伝』を読んでいるときに個人的に気に入った箇所がある。「陰弁慶の筆をいましむ」という項で、記事を執筆する際の留意点について書いている以下の部分だ。

執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべし。

ただし他人のことを論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々相対して直接に語られるようなことに限りて、それ以外に逸すべからず。

いかなる激論いかなる大言壮語も苦しからねど、新聞紙にこれをしるすのみにて、さてその相手の人に面会したとき自分の良心に恥じて率直に述べることのかなわぬことを書いていながら、遠方の知らぬ風をしてあたかも逃げて回るような者は、これを名づけて陰弁慶の筆という。

なかなか面白い。

 

参考文献

佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか』

福沢諭吉著、富田正文校注『福翁自伝

慶應義塾大学出版会 都倉武之「時事新報史」

慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事新報史

 

 

政治哲学の古典入門

國分功一郎『近代政治哲学−自然・主権・行政』

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本書について

本書は、筆者が大学で大学一年生向けに行ってきた講義をもとに作られた。本書は、以下の古典の内容とその著者についてそれぞれ解説するという形式をとっている。

 

ジャン・ボダン 『国家六論』

トマス・ホッブズリヴァイアサン

スピノザ 『国家論』

ジョン・ロック 『政府二論』

ジャン=ジャック・ルソー 『社会契約論』

デイビッド・ヒューム 『人性論』

イマヌエル・カント純粋理性批判』、『永遠平和のために』

 

筆者はこれらの古典を読み解くことで、現在の政治体制の持つ欠点を明らかにする。そうした本書の狙いを、自身の言葉ではこのように説明している。

 

現在の政治体制が近代政治哲学によって構想されたものであるならば、哲学からも自体を打開するためのヒントが得られるはずである。

我々のよく知る政治体制に欠点があるとすれば、その欠点はこの体制を支える概念の中にも見いだせるであろう。

概念を詳しく検討すれば、どこがどうおかしいのかを理論的に把握することができる。

 

結論から言えば、筆者が本書で念頭においている現在の政治体制の課題とは、行政国家化の問題である。すなわち、行政とその担い手である官僚の役割が著しく増大しているという問題だ。主権者である国民は、選挙を通じて議会に代議士を送りこむことで、立法に関与することができる。しかし、法の運用を行う行政の活動には関わることはできない。

 

本書はこの課題について、現在の政治体制を支える3つの概念、自然、主権、そして行政について焦点を当て、近代政治哲学の古典を解説している。

 

 とてもわかりやすく解説してあり、自分のような初学者にも向いていると思うので、よかったらぜひ。

 

経済の古典入門

竹中平蔵『経済古典は役に立つ』

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本書について

本書は、2010年4月から7月にかけて、筆者が慶應義塾大学丸の内キャンパスで行った講義をもとに作られた。本書は、以下の古典の内容とその著者についてそれぞれ解説するという形式をとっている。

 

アダム・スミス国富論

R・マルサス 『人口の原理』

D・リカード 『経済学および課税の原理』

K・マルクス著、F・エンゲルス編 『資本論

J・M・ケインズ 『雇用、利子および貨幣の一般理論

J・A・シュムペーター 『経済発展の理論』、『資本主義・社会主義・民主主義』

M・フリードマン 『資本主義と自由』

F・A・ハイエク 『隷属への道』

R・E・ワグナー、J・M・ブキャナン 『財政赤字の政治経済学』

 

筆者は、これらの古典を読み解くうえで、「こうした名著も当初から古典という地位にあったのではなく、当時の経済社会の問題を解決するという目的で書かれた」という事実に注目し、次のように書いている。

 

このことは重要な点を示唆している。

私たちがいま直面している経済社会の問題を解決するうえで、経済古典と言われる文献がきっと多くの示唆を与えるに違いない、という点だ。

 

本書はこのような視点から、経済古典を解説したものだ。具体的には、

①当時の経済社会における問題はなんだったのか

②それに対して筆者はどのような解決策を提示したのか

という2点について重点を置いて書かれている。

 

また、古典の書き手の間には影響関係がある場合も多い。例えば、マルサスの議論の出発点はアダム・スミスの議論への批判であり、ケインズシュムペーターの議論はマルクスを強く意識したものである。本書ではこうした点についても解説されている。

 

とてもわかりやすく解説してあり、自分のような初学者にも向いていると思うので、よかったらぜひ。

 

 

ジャーナリズムの未来

ジェフ・ジャービス『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか(原題: Geeks Bearing Gifts)』

 

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著者と本書について

 本書の著者は、ニューヨーク市立大学大学院のジャーナリズム学科教授であり、同校の起業ジャーナリズムセンターの所長も務めている。過去にはアメリカの地方紙で記者やコラムニストなどを経験したほか、コンサルタントや経営者としてイギリス大手紙ガーディアンや多くのメディア企業のデジタル部門の経営に関与し、報道と経営の両面で豊富な経験を持っている。

 本書はそんな彼が立てた、ジャーナリズムの未来に関する問いとそれに対する仮説が書かれたものだ。邦題は本書のテーマについて誤解を与えかねないように思うので、はじめに強調しておきたい。本書は、「稼げるか稼げないか」という次元でジャーナリズムの未来を語ってはいない。

 本書の主眼はむしろジャーナリズムの再定義にあり、彼の問題意識は「いかにしてジャーナリズムはテクノロジーを活用することで人々に新たな価値を提供できるか」ということである。

 今回は、思考の整理として、本書の一部についてまとめてみようと思う。

 

 メディアの世界で信じられている3つの常識

 冒頭で著者は、メディアの世界で信じられている3つの常識に対して疑問を呈している。

 

1. 一般の人々とメディア、ジャーナリズムとの関係についての常識

 従来、メディアは、一般の人々をひとくくりに「マス」として扱ってきた。あるいはひとくくりに「読者」、「視聴者」として扱ってきた。では、これからはどうなるのか。人々とメディアの関係が変化したとき、記者の役割や価値はどう変わるのか。

 

2. 記事の形式についての常識

 従来、記事とは断片的な情報をつなぎ合わせて前後関係を明確にし、整理してひとつの物語にしたものであった。そしてそのような形式によって、複雑に入り組んだ情報をわかりやすく要約する役割を果たしてきた。物語は今なお有効な形式ではあるが、それ以外にも様々な形式がありうるのではないか。

 

3. ビジネスモデルについての常識

 メディア企業のビジネスというと、旧来的なビジネスモデルが当たり前になっているが、その持続可能性は低くなっている。依然としてニュースへの需要があることを考えれば、問題なのはビジネスモデルである。ではどのような代替案がありうるのか。

 本書は3部構成をとって、それぞれの常識について再検討をしている。紙幅の都合上、ここでは個人的により興味を引いた1と3についての議論の根幹を追っていく。

 

『マス』は存在しない

「いわゆる『マス』というものは実際には存在しない。ただ人々を『マス』とみなす見方があるだけ」。著者は、この社会学者レイモンド・ウィリアムズの言葉を紹介している。

 情報が稀少なものであり、新聞やテレビが人々にとって主要な情報提供者だった時代において、メディアが情報の受け手としてのマスを前提としても問題はなかった。しかし、インターネットの台頭によって「マス」という概念は崩れた。人々が自ら情報を発信し、ひとりひとりと個別につながることが容易になったからだ。

 にもかかわらず、メディアが従来と同じように大勢をひとかたまりにして一方的に情報を押しつけるような姿勢を続けるべきだろうか。その問いに対する筆者の結論はNoだ。メディアも人々と個別にコミュニケーションをとる方が関係としてより適切である。そしてそうしなくては、メディアは生き残ることができない。

 

求められる人間関係構築スキル

 では、人々と個別にコミュニケーションをとるとはどういうことか。それは、個人やコミュニティを個別に知り、個別にサービスを提供するということだ。

 新聞や雑誌は、顧客の名前や住所、クレジットカードの番号は知っている。しかし、個々の顧客が何に興味を持ち、何を必要としているかという情報を集める手段を普通は持っていない。そして、購読者数やページビューを稼ぐことに必死になり、その数で広告主を引きつけようとする。

 これからは、それぞれの顧客についてより情報を集める必要がある。ただし、それは顧客に対してよりきめ細やかな情報を提供するためである。そうでなければ、何か見返りに利益がなければ、人々は自身についての情報を明かしてくれない。また、顧客から情報を明かしてもらうには、信頼関係を築くことも大切だろう。そして、顧客から得られた情報を正しく分析する力がいる。情報をどう活かせば、彼らは喜ぶのか、彼らの経済的利益になるのかを知る力が必要だということだ。このような意味で、著者は、これからのメディアには人間関係を構築するスキルが必要だと説く。

 ところで、こうしたことはまさにGoogleがしていることだ。様々なサービスを無料で提供し、ユーザーの情報が蓄積されていく。蓄積された情報を利用することで、Googleのサービスはさらにきめ細かくなり、個々のユーザーに合致したものになる。そしてその分だけGoogleの価値は高まる。著者によれば、これからの時代はニュースメディアも同様のことをしなくてはならない。

 

ジャーナリズムはコンテンツビジネスではない

 ニュースメディアはよく、自らのことをコンテンツメーカー、あるいはコンテンツクリエーターと位置づける。しかし本当にそうだろうか。またそうあるべきだろうか。

 著者はこの問いに関連して、メディアの自意識が招く失敗を「コンテンツクリエーターの罠」として次のように紹介している。メディアが自分のことをクリエーターだと思うと、自分の価値はあくまで「どういうものを作るか」というところにある、と考えてしまう。作ったものを誰が受け取り、どう役立てるかには目が向かない。コンテンツを作るのが自分のビジネスだと思えば、必然的に、作ったものは有料にすべき、ということになる。作るのにはコストがかかっているのだから、利用する側は当然代金を払わなくてはならないと考える。この考え方だとコンテンツを無料で利用することは窃盗のように思えるので、そうさせないようにコンテンツを守ろうとする。著作権を主張し、無料で利用することは不当だと訴える。

 しかし、技術革新によってコンテンツをコピーするコストは実質的にゼロになり、稀少だったコンテンツはコモディティと化した。このような時代が来た今、メディアはコンテンツを作るだけではビジネスが成り立たなくなっていると著者は指摘する。コンテンツはもはや最終製品にはなり得ない。コミュニティとその成員に何かを伝えるための手段のひとつとなるだけだ。そしてコンテンツの本質的な価値は、顧客について何か知り、彼らと良好な人間関係を構築するための手段としての価値だ。

 

メディアはコミュニティの支援者になれ

 ジャーナリズムはコンテンツビジネスではない。では何なのか。著者は、ジャーナリズムはサービス業のひとつだと言う。当たり前のことのように思えるが、そうではない。サービスには、必ず何か達成すべき目的がある。ジャーナリズムをサービス業と位置づけたとき、ニュースを作って流して終わりではない。ニュースを流すことで、個人やコミュニティが十分に情報を得て、情報が整理された状態にするという結果が重要になるのだ。

 しかし、ここでツッコミを入れたくなる。技術革新によってすべての人が情報の送り手になり、その情報が容易にコピーされ、それらがインターネットを通じてたちまち拡散していく現在、著者の言うサービス業としてのジャーナリズムは必要なのか。

 著者は必要だと考えている。コミュニティの中の人たちだけのやりとりでは、必要な情報が必ず得られるとは限らないからだ。その観点から、ジャーナリズムは人々に対して、例えば以下のような価値を提供できるのではないかと述べている。

 

・コミュニティの中の誰も答えられないような問いに対し、専門家や関係者に取材するなどして答えを見つけ出す

・断片的、一面的になっている情報をまとまりのあるものにする

・ある情報が社会全体にとってどういう意味を持つのか知らせる

・どの情報が重要なのか、何を信じればいいのか知らせる

・情報の真偽を詳しい調査によって確かめる

・物語や図表やイラスト、映像などを駆使して、難しい情報を理解しやすいものに変える

・人々が自ら詳しい調査をしたいと思ったとき、利用できるデータを提供する

 

 逆に言えば、これらに当てはまらない単純に情報を得るだけの仕事は、できる限り人々の手に委ねるべきだということだ。記者は単に情報を流す仕事から解放され、情報に付加価値をつけることに集中できるようになる。そして、そのようなメディアや記者の役割を、著者はコミュニティの支援者と名づける。

 

人々とメディアの協業関係

 先述のとおり、サービス業としてのジャーナリズムというコンセプトのもとでは、個人やコミュニティが十分に情報を得た状態にするという結果が重要になる。ここで強調すべきことは、ニュースを流すことはその結果をもたらすためのひとつの手段に過ぎないということだ。

 では、そのほかにどのような手段があるだろうか。著者は、人々と協力して情報を収集することもそのひとつだと言う。つまり、メディアと一般の人々が情報交換するためのプラットフォームを構築するのである。メディアとそこで働く記者がコンテンツクリエーターという自意識から自由になれば、顧客に提供する情報を必ずしも自らの手で収集する必要はない。情報は自分たちよりも一般の人々の方に多くあると考えれば、情報の送り手と受け手という非対称な関係ではなく、互いに協業する関係をメディアと人々との間に見出すことができる。

 

「ニュース・エコシステム」の中での協調

 高速印刷の技術が発明されて以降、ジャーナリズムは垂直統合型の産業になった。大規模なメディア企業が何を報道するかを判断し、記事を作成し、提供するまでの全ての過程を支配してきた。ジャーナリズムは寡占もしくは独占事業になっていたのだ。 

 しかし、時代は変わった。今は一般の人々にもコンテンツを作り、多くの人に行き渡らせる手段がある。ニュースの寡占・独占は崩れ、玉石混交、大小様々なニュースの供給源が現れてきている。このようなニュースの生産と流通をめぐる、多様な要素からなる混沌とした環境を、著者は「ニュース・エコシステム」と呼ぶ。

 そしてこれからの時代は、大手メディアも、個人ブロガーも、IT企業も、ニュース・エコシステムのメンバーであるという意識を持ち、協業することが必要だと説く。個々のメンバーが専門分野に特化し、足りないところは他のメンバーに補ってもらう。この分業・協業体制が、メディアにとっては事業の収益性を高め、人々にとっては細やかなニーズに対応する価値の高いサービスが提供されるようになるという点で、合理的だからだ。

 

おわりに

 ここでまとめを終わりたい。今回まとめた部分は本書の議論の根幹であるが、あくまでほんの一部分にすぎない。これ以外にも興味深い議論が多くあるので、よかったらぜひ。

日本人であるということ

自分には、日本人としてのアイデンティティが希薄だと思っていた。

例えば、法的に日本人であることが自分の幸福を妨げるなら、日本国籍なんて捨ててしまえばいいと思っている。

また、イケてない自分を上げ底するために、日本人としてのアイデンティティや日本という共同体に寄りかかって生きるのは、かなりしょうもなく思える。

オリンピックでの日本人選手のメダルラッシュや日本人科学者のノーベル賞受賞についての報道には、その点で違和感を覚える。

「やっぱり日本はすごかった」といった感じで、選手や科学者個人の功績を、日本のすばらしさや日本人である自分たちのすばらしさに結びつけようとする。

実際には両者に何の関係もないにもかかわらずだ。

こうした思いは、日本を出て以降も確実に強まっている。

 

しかし同時に、シンガポールに来て以降、自分の日本人としてのアイデンティティを実感する瞬間が2回あった。

まず、海外の留学生や現地の友達と第二次世界大戦の展示や記念碑を見たとき。

大戦中、日本はシンガポールを占領する中でかなり残虐な行為を働いていた。

それに関する展示や記念碑を見ているとき、そうした行為の数々が愚かで間違ったものであったという客観的な認識を超えて、なにか罪悪感や居心地の悪さともいえる感情が湧き上がってくる。

ずっと昔に赤の他人がやった行為と割り切ることができない。

同じ場にいる友達が自分を、「彼らと同じ日本人」として見ているからだ。

周囲から自分が日本人として見られている以上、その設定から自由になることはできないようだ。

 

次に、日本についての議論が行われているとき。

少子高齢化、人口減少、内向きで英語も話せない日本人、非効率な雇用慣行、よって日本はもう終わり」みたいな議論を目の当たりにすると、それらがおおむね正しいと感じていても反論せずにはいられない。

おそらく日本人としてのアイデンティティと「自分が他の国から来た人よりも日本についてよく知っている」というこだわりが自分を駆り立てているのだと思う。

 

国というものに縛られるべきでないと、今まで考えてきた。

だから、留学生活の中で発見したこうした自分の姿には、正直少し戸惑っている。

 

 

 

人生における成功と仕事

リチャード・シェル『ウォートン・スクールの本当の成功の授業(原題: Launching Your Personal Search for SUCCESS)』

 

筆者と本書について

筆者はペンシルバニア大学のビジネススクールで教鞭をとっているが、20代にはペンキ職人などの職を転々としながら世界各地を放浪した異色の経歴の持ち主。
本書はそんな彼が同校で開設して以来続く人気講座である「成功の授業」を受けて書かれたものだ。すべての内容が特別なものというわけではないが、人生における成功についてわかりやすくまとまっているし、エピソードや「演習」は示唆に富んでいる。
そこで、思考の整理として、本書の一部についてまとめてみようと思う。

 

冒頭、筆者は以下の2つの質問を読者に投げかける。
① 人生における成功とは何か
② どうやって成功するか

 

本書はこの2点について考えているが、今回は①についてのみ見ていく。

 

成功の4つのセオリー

成功とは何かを考える前に、筆者は成功に関する基本的な4つのセオリーを紹介している。


セオリー1. 成功には試行錯誤が必要
人生の目標を考えるばかりでなく、リスクを負って挑戦しよう。挑戦してみて自分に合わないと感じたらまた探せばいい。

 

セオリー2. 成功の価値観は自分自身の中にある
人生の目標はどこからともなく現れるのではない。まず、自分自身を取り巻く文化や家族に「押し付けられた」成功の価値観に気づかなくてはならない。そして自分自身の成功の定義を明確にするために、自分の内面を見つめ、自分自身が心から尊重できるものを発見しなければならない。

 

セオリー3. 成功とは仕事だけのことではない
成功とは仕事に限られた概念ではない。

 

セオリー4. 成功とは旅である
学び、成長し、成熟していくなかで、20代に興味をそそられていたものが、30代、40代にはおもしろくなくなるかもしれない。それは自分に新たな素質が備わったということであり、自分自身の能力と経験の組み合わせが変わることで、新しいチャンスが生まれる。

 

成功には2つの側面がある

さて、人生における成功とは何だろうか。成功を主に「対外的な達成度」で判断する人と、主に「内面的な満足感・充足感」で判断する人がいる。このバランスは人によってそれぞれ異なる。

 

成功の内的側面―幸せとは何か

まず、成功の内的側面について考えてみる。
「人生における成功とは何か」と聞かれると、多くの人は「幸せになることです」と答える。ではその幸せとは何を意味するのだろうか。筆者は幸せを、以下の3つに分類している。

 

幸せの3つの意味
① 瞬間的幸せ
瞬間的に湧き上がるポジティブな感情
例:おいしいものを食べたとき

② 総合的幸せ
過去と未来、人生を総合的に評価・判断しての幸せ
例:順調なキャリア、健康、良きパートナー

③ 魂の経験
その人にとって正しい種類の課題に対して、正しい種類の努力を注ぐことから生まれる充足感(ヘブライ語でいうところの「シムハ」)

 

第3の幸せ「魂の経験」
これだけ少しわかりづらい。「魂の経験」が「瞬間的な幸せ」や「総合的な幸せ」と大きく異なる点は、それがネガティブな感情も含んでいるということである。
ポジティブな感情だけが幸せではない。苦しい時期も、その後充足感を得るような学びになりうるのである。

「わたしたちの文化は、ポジティブな感情こそ良い人生の第一指標だという先入観にとらわれているせいで、決定的な要素を候補から除外している」

これら3つの比重は人それぞれだが、みなさんはこのなかでどれを重視するだろうか。

 

成功の外的側面

次は成功の外的側面について考えてみよう。この話をする前に筆者は1つのエピソードを紹介している。

 

とある弁護士の話
起業家ボルチは、法務顧問として弁護士を探していた。

そこで頼りにする法律事務所で「おすすめの弁護士はいないか」と聞いたところ、とある弁護士が答えた。

「俺を雇うっていうのはどうかな?」

「それができたら言うことないさ」とボルチは言った。

「でもうちじゃ、君が今の事務所でもらっているような給料は到底出せないよ」

「構わないよ」と弁護士。

「その仕事を受けるよ。いくら払うかは好きに決めてくれ」

ボルチは興味を引かれてこう尋ねた。

「今の事務所の仕事に何か問題でもあるのかい」

「いや」と弁護士は言った。

「何の問題もない。ただ、もっとパイを食いたいかどうかって話さ」

「パイ…?」

弁護士は説明した。

「今まで俺がやってきたことって、パイの大食い大会みたいなもんさ。高校ではいい大学に入るために勉強して、大学では良いロー・スクールに入るために勉強して、ロー・スクールでは一流の法律事務所に就職するために勉強した。そして法律事務所ではパートナー弁護士になるために働いた。それでやっとわかったんだよ。それってパイの大食い競争じゃないかって。勝った後にもらえる賞品はいつも同じ。『パイがもっと食べられる権利』。そんなの誰が欲しい?」

ボルチはその場で彼を採用した。

 

成功の固定観念を形成する家族、文化的な価値観
この話は、ありがちな成功についての固定観念への問題提起である。
刻み込まれた家族や文化の価値観は、成功についての固定観念を無意識のうちに形成し、成功を測るうえで決定的な役割を果たすのだ。
成功を自分で定義するには、家族や文化の価値観をどう取捨選択するか(すべて捨てろとは言っていない)を考える必要がある。

 

・家族
両親の愛情が無条件のものではない場合がある。親から過剰な期待をかけられることで、真の成功の達成が困難になるかもしれない。

 

・文化的価値観
世界のどのコミュニティでも、その内にある成功の価値観は、はっきりとは目に見えないが誰しも幼いころから、成功しているとはどういうことかというメッセージを数え切れないほど聞かされている。
親だけでなく、特定の学校に入ろうとしたり、特定の種類の人と付き合おうとしたり、特定の製品を買おうとしたり、特定の仕事につきたがったりと、必死になる周りになる人を見るうちに世間一般の価値観を刷り込まれる。
例えば、ビジネス・スクールの学生はステータスの高い職業は何かという問いに対して、ほぼ全員の答えが一致する。“テクノロジー、ファイナンスコンサルティング”だ。はじめのうちは内心疑いを抱いている者たちでさえ、あっという間にその渦の中に飲み込まれ、ビジネス・スクールの文化を刷り込まれていく。

 

名声と富の誘惑
マスメディアが示す成功のイメージとして刷り込まれるのが「名声と富」だ。そのため、曖昧な自己像を強化するためだけに名声や富を求め続けると、成功中毒者になってしまう可能性がある。
名声や富には限度がない。名声やお金そのものには問題があるわけではないが、それらとそれらで得られると考えるステータスに対する過剰な欲求には大きな問題がある。

 

名声や富に代わる目標とは?
―認知的尊敬ではなく情報に基づいた尊敬、富ではなく経済的安定を

外的な意味での成功を求めること自体が間違っているわけではない。地位や名声や富を目指す代わりに正しい成功の道から外れないためには、間違った種類の尊敬である「認知的尊敬」にではなく、「情報に基づいた尊敬」に関心を持ったほうがよい。

認知的尊敬とは、社会的に認知されることで自分が特別な存在であるかのように扱われる尊敬である。一方で、情報に基づいた尊敬とは、才能や実績を正当に認めてくれる人たちから受ける尊敬を指す。
前者は限度がなく、過剰な欲求に結びつきやすいが、後者は自分を理解してくれる一部の人に対する感謝となりやすい。

そして無制限の富ではなく、自分と家族が安心して暮らせる程度のお金で実現できる「経済的安定」を求めたほうがよい。そしてそれ以上のお金をいくらか手放すとよい(衣食住と多少の楽しみに使える程度の、平均して7万5000ドル~10万ドルの収入があると、それ以上得ても「瞬間的幸せ」は上昇しない)。

これらの成功の外的側面、内的側面に基づいて自分なりの成功の定義をする必要がある。

 

人生における成功と仕事

仕事は成功の一部である。成功の定義のしかたによってそのなかの仕事の位置付けも変わるし、仕事の位置づけ方によって成功の定義も変わってくる。
筆者はまず、職業の3通りの捉え方を紹介する。

 

職業の3通りの捉え方

① 労働
自分の仕事を、主に給料を得る手段とみなし、仕事とは関係のない私生活を支えるために働く。

② キャリア
自分の職場を、専門的職業や技術領域などの修練の場と考える。そして今の仕事は、より高い職責、より高い給料を得るための地道なプロセスの1つと捉える。仕事は「未来の自分」を約束してくれるもの。

③ 天職(やりがいのある仕事)
自分がその職に携わっていることを幸運だと感じる。なぜなら仕事は自分にとって何か重要なものの反映だからだ。あるいは、仕事が自分にしかない、個人的な価値観を表現するチャンスを与えてくれるからだ。

 

このうち、仕事を労働とみなす人がそれをやりがいのある仕事だとみなすことはなく、キャリアとみなす人がそれをやりがいのある仕事だとみなすことは比較的多い。そしてそれは仕事の種類によるのではなく、単純作業であったとしても、次の問いに答えるものであればどんな仕事でもやりがいのある仕事になる。
「自分と仕事を結びつけ、仕事にやりがいを与えてくれる記憶、経験、情熱、価値観、ストーリーは何か」

 

また、やりがいのある仕事とは以下の3円の重なる部分であると言える。

 

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・報酬が得られる仕事
職業カウンセリングの専門家カレン・バーンズによれば、自分の仕事が「大好きというわけではないが嫌いでもない」という世の中の大多数の人たちはとても充実した生活を送っている。社会的身分、自尊心、自立感、社会との結びつきなども得られる。

 

・才能と強みを生かせる仕事-「黄金の手錠」の問題
自分の才能を生かせる仕事を探すのは大切だが、たまたま得意だという理由だけでそれを仕事にすることにはリスクもある。

その例が、優秀な人にありがちな「黄金の手錠」の問題である。例えばビジネス・スクールの学生は、たいてい定量分析の才能に極めて優れており、そして卒業後はたいていその才能と強みが生かせる金融やコンサルティング、会計といった給料の高い業界に落ち着く。ただ、数年たつとその仕事に「もう飽きてしまった」という学生も多いが、高額な給料に依存したライフスタイルを送っているため、今以上に満足できる仕事を見つけることができないという「手錠」をかけられた状況に陥る。

 

・情熱を燃やせる仕事
通常の趣味だけでなく、趣味や地域活動も含む。例えば、労働として仕事に取り組む人が人生の満足感を求めて、給料目的の仕事から完全に隔離した場所で「情熱に関連する」仕事をする場合である。

 

もし仕事にやりがいを求めるならどのようにその仕事を探せばよいのだろうか。仕事のやりがいには以下の7つの源がある。そのうちどれに心を揺さぶられるかで仕事を選べばよい。


1. 個人の成長と発展:仕事を通じて成長する喜び
2. 起業家的独立性:裁量の自由
3. 宗教的または精神的アイデンティティ:宗教的価値観への献身
4. 家族:家族の期待に応える
5. アイデア・発明・芸術を通した自己表現
6. コミュニティ:そのコミュニティの一員であることの誇り
7. 才能を磨く努力:職人的情熱

 

おわりに

この本は、「成功を定義したうえでどうやってそれを実現すればいいのか」についても議論している。他にも面白いエピソードがあるので、気になったらぜひ。

 

老いとマイノリティ

『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』

モーガン・フリーマン、ダイアン・キートン主演の『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』を観てきた。話の概要としては、このふたりの大物俳優演じる老夫婦がエレベーターがなく上り下りがきつくなってきた部屋を売って引っ越そうとする、というもの。


途中までこの老夫婦と愛犬のほほえましい日々を普通に楽しんで観ていたのだが、終盤、老夫婦が結局引っ越さないことに決めるあたり流れに、「え?結局引っ越さないの?おう…。」としばらく腑に落ちない感じでもやもや。
そこでその後考えて、こんな解釈をしてみた。

 

 「老い」の問題

 話は部屋の唯一の難点から始まる。そこそこ高い階の部屋なのにエレベーターがないのだ。眺めはいいし、気に入っている。ふたりの思い出のつまった部屋。今ここで生活ができないというほど階段の上り下りがつらいわけではない。しかし、将来ずっとここに住むことはできない。さらなる老いがふたりを待っている。ふたりは老いを受け入れ、この部屋を売って引っ越すことにした。

 
 ハプニング

 部屋を売る準備を進めるふたりだが、いくつかのハプニングに見舞われる。愛犬ドロシーの急病。老いはふたりだけでなくドロシーにも迫っている。近所でのテロ騒ぎ(結局テロではない)。その現場が近所のためアパート売却に悪影響が出る。

 

 マイノリティ

 そんなハプニングのなかでも、ふたりはほほえましく引っ越しに向けて準備を進める。しかし、時折流れる回想シーンなどでは、マイノリティとして周囲から冷たい視線を向けられたり、自分自身に負い目のようなものを感じたりするふたりの姿が描かれている。夫は黒人で画家。妻は黒人の妻で不妊症。そして何よりふたりは老いていく高齢者だ。


 ふたりに向けられたのと同様かそれ以上に、テロ騒ぎの容疑者として追跡されるムスリムの若者を見るニューヨーク市民の視線はとてつもなく厳しい。テロは現代の問題でありながら、マイノリティが抑圧されるという構造は今も昔も変わらない。

 

 話は終盤に入り、ようやく部屋の買い手と新居が見つかり、残すは契約だけというところに。契約の場で流れる容疑者逮捕の一部始終の映像。「打ち殺せ」などと叫ぶ新居の売り手を見た夫婦(特に夫)は、マイノリティを敵視し攻撃するマジョリティの彼らに反発するとともに、夫は契約の撤回を告げる。
 

 「老い」の二面性

 そしてふたりは、自分たちが受け入れようとしていた「老い」が実はマイノリティとしての高齢者という立場でしかなかったこと、また、身体能力の低下という現実問題としての老いが差し迫ったものではないことに気づき、今までの日常に戻ることに決めた。

 

 ということでこの話は、身体能力が低下していくという現実問題としての老いと、高齢者というマイノリティの立場に追いやられる過程としての老いという、「老い」の二面性を主題としたものだったと解釈した。

 

 高齢者はマイノリティか

 とこんな解釈をして納得しかけたものの、今度は高齢者ってマイノリティなんだろうかという疑問がわいてきた。特に、高齢化の進む日本では65歳以上人口は25%を超え、もはや高齢者が数字的に見てマイノリティとは言いがたい状況になっている。

 
 しかし、マイノリティという言葉を、「○○でないという形で区別され、相対的に社会の周辺に置かれる人々」というふうに考えてみたら、やっぱり高齢者はマイノリティだといえそうだ。数というよりもその結果として社会の周辺に置かれる点に注目するということである。例えば、アメリカではマイノリティのヒスパニックが増加しているが、社会的な地位としてはあくまでマイノリティのままだ。同じように、高齢者は数が増えているものの、「健常でない」という区別によって社会の周辺に置かれている。

 

 高齢者が少数派ではないが、マイノリティではある日本

 こんなふうに考えてみると、高齢者をめぐる日本の状況はちょっと複雑である。高齢者は数の面で少数派ではないが、社会的地位の面でマイノリティなのだ。

 そんななか高齢者の関する問題として最近よく挙がるのが、シルバー民主主義とか世代間格差の問題である。
数字としては少数派ではない高齢者が大きな政治的影響力を持ち、そのため予算配分から見て有利な立場を得ているとされる。一方で、これを是正して現役世代への予算を増やそうという動き、マス・メディアの主張が強まりつつある。これ自体は正しい流れだと思うが、その議論については注意した方がいいと思う。

 そうでないと世代間格差は世代間対立になって、高齢者は悪者扱いされ、周辺で抑圧されてしまいかねない気がする。問題は高齢者の存在そのものではなく、政策的な選好が世代間で偏りがちな社会保障についての決定を多数決の原理のもとでやらなくてはいけないという政治の構造にある。

 そして「社会の主役は将来を担う若者だ」なんて簡単に言ってしまいそうになるけど、社会に「主役」と「主役でないその他」なんていう区別があるべきではない。「主役の若者から搾取する悪い高齢者」みたいな感情的に向かわず、社会全体の利益をどう図っていくかを現実問題として考える姿勢が重要だ。それくらい意識しておかないと、高齢者は数として多くても社会的に抑圧、無視されやすい存在だと思う。

 

 

 

※マイノリティという言葉に代わるより適当な表現を探していた時に、「社会的弱者」という語が浮かんだ。ただ、この言葉は社会的弱者が強者によって救われなくてはならないということを暗に意味していて、弱者が救われるその過程で強者と弱者の上下関係が固定化されることを肯定してしまっている表現であるように思えて、適当な感じがしなかった。