老いとマイノリティ

『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』

モーガン・フリーマン、ダイアン・キートン主演の『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』を観てきた。話の概要としては、このふたりの大物俳優演じる老夫婦がエレベーターがなく上り下りがきつくなってきた部屋を売って引っ越そうとする、というもの。


途中までこの老夫婦と愛犬のほほえましい日々を普通に楽しんで観ていたのだが、終盤、老夫婦が結局引っ越さないことに決めるあたり流れに、「え?結局引っ越さないの?おう…。」としばらく腑に落ちない感じでもやもや。
そこでその後考えて、こんな解釈をしてみた。

 

 「老い」の問題

 話は部屋の唯一の難点から始まる。そこそこ高い階の部屋なのにエレベーターがないのだ。眺めはいいし、気に入っている。ふたりの思い出のつまった部屋。今ここで生活ができないというほど階段の上り下りがつらいわけではない。しかし、将来ずっとここに住むことはできない。さらなる老いがふたりを待っている。ふたりは老いを受け入れ、この部屋を売って引っ越すことにした。

 
 ハプニング

 部屋を売る準備を進めるふたりだが、いくつかのハプニングに見舞われる。愛犬ドロシーの急病。老いはふたりだけでなくドロシーにも迫っている。近所でのテロ騒ぎ(結局テロではない)。その現場が近所のためアパート売却に悪影響が出る。

 

 マイノリティ

 そんなハプニングのなかでも、ふたりはほほえましく引っ越しに向けて準備を進める。しかし、時折流れる回想シーンなどでは、マイノリティとして周囲から冷たい視線を向けられたり、自分自身に負い目のようなものを感じたりするふたりの姿が描かれている。夫は黒人で画家。妻は黒人の妻で不妊症。そして何よりふたりは老いていく高齢者だ。


 ふたりに向けられたのと同様かそれ以上に、テロ騒ぎの容疑者として追跡されるムスリムの若者を見るニューヨーク市民の視線はとてつもなく厳しい。テロは現代の問題でありながら、マイノリティが抑圧されるという構造は今も昔も変わらない。

 

 話は終盤に入り、ようやく部屋の買い手と新居が見つかり、残すは契約だけというところに。契約の場で流れる容疑者逮捕の一部始終の映像。「打ち殺せ」などと叫ぶ新居の売り手を見た夫婦(特に夫)は、マイノリティを敵視し攻撃するマジョリティの彼らに反発するとともに、夫は契約の撤回を告げる。
 

 「老い」の二面性

 そしてふたりは、自分たちが受け入れようとしていた「老い」が実はマイノリティとしての高齢者という立場でしかなかったこと、また、身体能力の低下という現実問題としての老いが差し迫ったものではないことに気づき、今までの日常に戻ることに決めた。

 

 ということでこの話は、身体能力が低下していくという現実問題としての老いと、高齢者というマイノリティの立場に追いやられる過程としての老いという、「老い」の二面性を主題としたものだったと解釈した。

 

 高齢者はマイノリティか

 とこんな解釈をして納得しかけたものの、今度は高齢者ってマイノリティなんだろうかという疑問がわいてきた。特に、高齢化の進む日本では65歳以上人口は25%を超え、もはや高齢者が数字的に見てマイノリティとは言いがたい状況になっている。

 
 しかし、マイノリティという言葉を、「○○でないという形で区別され、相対的に社会の周辺に置かれる人々」というふうに考えてみたら、やっぱり高齢者はマイノリティだといえそうだ。数というよりもその結果として社会の周辺に置かれる点に注目するということである。例えば、アメリカではマイノリティのヒスパニックが増加しているが、社会的な地位としてはあくまでマイノリティのままだ。同じように、高齢者は数が増えているものの、「健常でない」という区別によって社会の周辺に置かれている。

 

 高齢者が少数派ではないが、マイノリティではある日本

 こんなふうに考えてみると、高齢者をめぐる日本の状況はちょっと複雑である。高齢者は数の面で少数派ではないが、社会的地位の面でマイノリティなのだ。

 そんななか高齢者の関する問題として最近よく挙がるのが、シルバー民主主義とか世代間格差の問題である。
数字としては少数派ではない高齢者が大きな政治的影響力を持ち、そのため予算配分から見て有利な立場を得ているとされる。一方で、これを是正して現役世代への予算を増やそうという動き、マス・メディアの主張が強まりつつある。これ自体は正しい流れだと思うが、その議論については注意した方がいいと思う。

 そうでないと世代間格差は世代間対立になって、高齢者は悪者扱いされ、周辺で抑圧されてしまいかねない気がする。問題は高齢者の存在そのものではなく、政策的な選好が世代間で偏りがちな社会保障についての決定を多数決の原理のもとでやらなくてはいけないという政治の構造にある。

 そして「社会の主役は将来を担う若者だ」なんて簡単に言ってしまいそうになるけど、社会に「主役」と「主役でないその他」なんていう区別があるべきではない。「主役の若者から搾取する悪い高齢者」みたいな感情的に向かわず、社会全体の利益をどう図っていくかを現実問題として考える姿勢が重要だ。それくらい意識しておかないと、高齢者は数として多くても社会的に抑圧、無視されやすい存在だと思う。

 

 

 

※マイノリティという言葉に代わるより適当な表現を探していた時に、「社会的弱者」という語が浮かんだ。ただ、この言葉は社会的弱者が強者によって救われなくてはならないということを暗に意味していて、弱者が救われるその過程で強者と弱者の上下関係が固定化されることを肯定してしまっている表現であるように思えて、適当な感じがしなかった。