日本人であるということ
自分には、日本人としてのアイデンティティが希薄だと思っていた。
例えば、法的に日本人であることが自分の幸福を妨げるなら、日本国籍なんて捨ててしまえばいいと思っている。
また、イケてない自分を上げ底するために、日本人としてのアイデンティティや日本という共同体に寄りかかって生きるのは、かなりしょうもなく思える。
オリンピックでの日本人選手のメダルラッシュや日本人科学者のノーベル賞受賞についての報道には、その点で違和感を覚える。
「やっぱり日本はすごかった」といった感じで、選手や科学者個人の功績を、日本のすばらしさや日本人である自分たちのすばらしさに結びつけようとする。
実際には両者に何の関係もないにもかかわらずだ。
こうした思いは、日本を出て以降も確実に強まっている。
しかし同時に、シンガポールに来て以降、自分の日本人としてのアイデンティティを実感する瞬間が2回あった。
まず、海外の留学生や現地の友達と第二次世界大戦の展示や記念碑を見たとき。
大戦中、日本はシンガポールを占領する中でかなり残虐な行為を働いていた。
それに関する展示や記念碑を見ているとき、そうした行為の数々が愚かで間違ったものであったという客観的な認識を超えて、なにか罪悪感や居心地の悪さともいえる感情が湧き上がってくる。
ずっと昔に赤の他人がやった行為と割り切ることができない。
同じ場にいる友達が自分を、「彼らと同じ日本人」として見ているからだ。
周囲から自分が日本人として見られている以上、その設定から自由になることはできないようだ。
次に、日本についての議論が行われているとき。
「少子高齢化、人口減少、内向きで英語も話せない日本人、非効率な雇用慣行、よって日本はもう終わり」みたいな議論を目の当たりにすると、それらがおおむね正しいと感じていても反論せずにはいられない。
おそらく日本人としてのアイデンティティと「自分が他の国から来た人よりも日本についてよく知っている」というこだわりが自分を駆り立てているのだと思う。
国というものに縛られるべきでないと、今まで考えてきた。
だから、留学生活の中で発見したこうした自分の姿には、正直少し戸惑っている。