起業家ジャーナリスト 福沢諭吉
起業家ジャーナリスト福沢諭吉
最近、佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか』という本を読んだ。
その本の最後では、福沢諭吉のことを、「これから求められる『起業家ジャーナリスト』そのもの」と評価したうえで、このように筆者は書いている。
福沢諭吉は、もっぱら慶應義塾大学の創設者として知られていますが、時事新報の立ち上げも歴史に残る偉業です。
1882年、政党の御用新聞ばかりだった時代に、「独立不羈(どくりつふき)ー不偏不党」を理念として、時事新報をスタート。
社長兼編集主幹として健筆をふるい、わずか数年で部数を1万数千部へと押し上げ、「日本一の時事新報」と呼ばれるまでになりました。
なるほど、これは参考になるかもしれない。
そう思って、起業家ジャーナリストとしての福沢諭吉についてさらに調べてみた。
時事新報設立の経緯
時事新報設立の経緯について、福沢は次のように述べている。
それから明治15年に時事新報という新聞紙を発起しました。
ちょうど14年政界変動ののちで、慶応義塾先進の人たちがわたしかたに来てしきりにこのことを勧める。
わたしもまた自分で考えてみるに、世の中の形勢は次第に変化して、政治のことも商売のことも日々夜々運動の最中、あいたがいに敵味方ができて議論は次第にかまびすしくなるに違いない。
(中略)
政治上にけんかが起きれば、経済商売上にも同様のことが起こらねばならぬ。
今後はいよいよますますはなはだしいことになるであろう。
このときにあたって必要なるは、いわゆる不偏不党の説であるが、さてその不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏するところがあって一身の利害に引かれては、とても公平の説を立てることができない。
そこでいま全国中に、いさら、その身は政治上にも商売上にも野心なくしてあたかも物外に超然たる者は、おこがましくも自分のほかに適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、ついに決心して新事業に着手したものが、すなわち時事新報です。
福沢の経営手腕
福沢は、時事新報から「不偏不党の説」を発信すべく、経営を重視する。この点について、福沢諭吉を研究する都倉武之氏は次のように述べている。
当時の新聞人たちは、経営努力というものに関心が薄かった。
彼らは言論を発信する手段としての新聞に多大の関心を寄せつつ、金銭を求めたり商売に聡いことは賤しいこと、とする江戸時代の考え方を併せ持っていた。
しかし、現実問題として新聞を維持するには金が要る。
他の新聞が政党機関紙や御用新聞となって、ある立場を代表することは、経営のための資金をその辺りから得ていることとも関係があったのである。
あらゆるしがらみを断ち、誰にも遠慮のない発言をするとして、「独立不羈」を掲げる『時事』が、経営を重視しなければならないのは必然のことであった。
では具体的に福沢は何をしたのか。
最も主要なことは、当時販売収入が多くを占めていた収入源を多角化するため、広告収入の増加を図ったことだ。
たとえば、時事新報の社説で新聞広告が有効な宣伝方法であると説き、自ら広告原稿やコピーライティングを手がけた。さらには広告主に「こんな文章を書けば、もっと読まれる広告になる」と講義したという。
ただ一方で、不偏不党の言論を維持するため、広告主と対立したこともあった。
時事新報に週に4,5回広告を載せていた広告主である売薬業者を、薬の効能をめぐり批判。大々的に売薬業者の広告を掲げる新聞も「売薬師の提灯(ちょうちん)持ち」と批判したのだ。
その結果、「売薬は無効無害」という時事新報の主張の核心を、営業毀損とする訴えが東京の売薬業者によって裁判所に持ち込まれ、裁判沙汰になったうえに広告収入を失ってしまった。
この点について、都倉氏はこのようなエピソードを紹介している。
『時事』は、まだ赤字の出ていた時期であり、広告の主任であった伊東茂右衛門はこの騒動で広告が減ったことに大いに不満を訴えたという。これに対して福沢は、「始めたことは今さら仕方がないではないか、これも学問のためだから我慢しなさい」となだめたと伝えられている。
広告収入の増加を図った以外にも、福沢の死後経営を引き継いだ次男の捨次郎とともに、福沢は以下のような取り組みをおこなった。
・コミュニティの形成:福沢が設立した日本初の実業家の社交クラブである交詢社と提携
・海外報道の充実:英通信社ロイターと独占契約
・書き手の多様化:女性ジャーナリストの積極登用
・コンテンツのエンタメ化:時事漫画の確立
・デザインへの配慮:新聞用紙を桃色に切り替え、他紙と見た目を差別化
・先進技術の導入:イギリスから最新鋭印刷機器を購入
・データ情報の充実:天気予報、商況、物価動向をはじめて新聞に掲載
・コンテンツの二次利用:テーマ別の社説を連載し、終了後は書籍として出版
このような起業家ジャーナリストとしての福沢の実践は、事業環境が変化し、旧来的なビジネスモデルからの脱皮を求められている現在のジャーナリズムに示唆と刺激を与えてくれる存在だろう。
陰弁慶の筆をいましむ
余談だが、『福翁自伝』を読んでいるときに個人的に気に入った箇所がある。「陰弁慶の筆をいましむ」という項で、記事を執筆する際の留意点について書いている以下の部分だ。
執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべし。
ただし他人のことを論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々相対して直接に語られるようなことに限りて、それ以外に逸すべからず。
いかなる激論いかなる大言壮語も苦しからねど、新聞紙にこれをしるすのみにて、さてその相手の人に面会したとき自分の良心に恥じて率直に述べることのかなわぬことを書いていながら、遠方の知らぬ風をしてあたかも逃げて回るような者は、これを名づけて陰弁慶の筆という。
なかなか面白い。
参考文献
佐々木紀彦『5年後、メディアは稼げるか』
慶應義塾大学出版会 都倉武之「時事新報史」
慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉|ウェブでしか読めない|時事新報史