ジャーナリズムの未来

ジェフ・ジャービス『デジタル・ジャーナリズムは稼げるか(原題: Geeks Bearing Gifts)』

 

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著者と本書について

 本書の著者は、ニューヨーク市立大学大学院のジャーナリズム学科教授であり、同校の起業ジャーナリズムセンターの所長も務めている。過去にはアメリカの地方紙で記者やコラムニストなどを経験したほか、コンサルタントや経営者としてイギリス大手紙ガーディアンや多くのメディア企業のデジタル部門の経営に関与し、報道と経営の両面で豊富な経験を持っている。

 本書はそんな彼が立てた、ジャーナリズムの未来に関する問いとそれに対する仮説が書かれたものだ。邦題は本書のテーマについて誤解を与えかねないように思うので、はじめに強調しておきたい。本書は、「稼げるか稼げないか」という次元でジャーナリズムの未来を語ってはいない。

 本書の主眼はむしろジャーナリズムの再定義にあり、彼の問題意識は「いかにしてジャーナリズムはテクノロジーを活用することで人々に新たな価値を提供できるか」ということである。

 今回は、思考の整理として、本書の一部についてまとめてみようと思う。

 

 メディアの世界で信じられている3つの常識

 冒頭で著者は、メディアの世界で信じられている3つの常識に対して疑問を呈している。

 

1. 一般の人々とメディア、ジャーナリズムとの関係についての常識

 従来、メディアは、一般の人々をひとくくりに「マス」として扱ってきた。あるいはひとくくりに「読者」、「視聴者」として扱ってきた。では、これからはどうなるのか。人々とメディアの関係が変化したとき、記者の役割や価値はどう変わるのか。

 

2. 記事の形式についての常識

 従来、記事とは断片的な情報をつなぎ合わせて前後関係を明確にし、整理してひとつの物語にしたものであった。そしてそのような形式によって、複雑に入り組んだ情報をわかりやすく要約する役割を果たしてきた。物語は今なお有効な形式ではあるが、それ以外にも様々な形式がありうるのではないか。

 

3. ビジネスモデルについての常識

 メディア企業のビジネスというと、旧来的なビジネスモデルが当たり前になっているが、その持続可能性は低くなっている。依然としてニュースへの需要があることを考えれば、問題なのはビジネスモデルである。ではどのような代替案がありうるのか。

 本書は3部構成をとって、それぞれの常識について再検討をしている。紙幅の都合上、ここでは個人的により興味を引いた1と3についての議論の根幹を追っていく。

 

『マス』は存在しない

「いわゆる『マス』というものは実際には存在しない。ただ人々を『マス』とみなす見方があるだけ」。著者は、この社会学者レイモンド・ウィリアムズの言葉を紹介している。

 情報が稀少なものであり、新聞やテレビが人々にとって主要な情報提供者だった時代において、メディアが情報の受け手としてのマスを前提としても問題はなかった。しかし、インターネットの台頭によって「マス」という概念は崩れた。人々が自ら情報を発信し、ひとりひとりと個別につながることが容易になったからだ。

 にもかかわらず、メディアが従来と同じように大勢をひとかたまりにして一方的に情報を押しつけるような姿勢を続けるべきだろうか。その問いに対する筆者の結論はNoだ。メディアも人々と個別にコミュニケーションをとる方が関係としてより適切である。そしてそうしなくては、メディアは生き残ることができない。

 

求められる人間関係構築スキル

 では、人々と個別にコミュニケーションをとるとはどういうことか。それは、個人やコミュニティを個別に知り、個別にサービスを提供するということだ。

 新聞や雑誌は、顧客の名前や住所、クレジットカードの番号は知っている。しかし、個々の顧客が何に興味を持ち、何を必要としているかという情報を集める手段を普通は持っていない。そして、購読者数やページビューを稼ぐことに必死になり、その数で広告主を引きつけようとする。

 これからは、それぞれの顧客についてより情報を集める必要がある。ただし、それは顧客に対してよりきめ細やかな情報を提供するためである。そうでなければ、何か見返りに利益がなければ、人々は自身についての情報を明かしてくれない。また、顧客から情報を明かしてもらうには、信頼関係を築くことも大切だろう。そして、顧客から得られた情報を正しく分析する力がいる。情報をどう活かせば、彼らは喜ぶのか、彼らの経済的利益になるのかを知る力が必要だということだ。このような意味で、著者は、これからのメディアには人間関係を構築するスキルが必要だと説く。

 ところで、こうしたことはまさにGoogleがしていることだ。様々なサービスを無料で提供し、ユーザーの情報が蓄積されていく。蓄積された情報を利用することで、Googleのサービスはさらにきめ細かくなり、個々のユーザーに合致したものになる。そしてその分だけGoogleの価値は高まる。著者によれば、これからの時代はニュースメディアも同様のことをしなくてはならない。

 

ジャーナリズムはコンテンツビジネスではない

 ニュースメディアはよく、自らのことをコンテンツメーカー、あるいはコンテンツクリエーターと位置づける。しかし本当にそうだろうか。またそうあるべきだろうか。

 著者はこの問いに関連して、メディアの自意識が招く失敗を「コンテンツクリエーターの罠」として次のように紹介している。メディアが自分のことをクリエーターだと思うと、自分の価値はあくまで「どういうものを作るか」というところにある、と考えてしまう。作ったものを誰が受け取り、どう役立てるかには目が向かない。コンテンツを作るのが自分のビジネスだと思えば、必然的に、作ったものは有料にすべき、ということになる。作るのにはコストがかかっているのだから、利用する側は当然代金を払わなくてはならないと考える。この考え方だとコンテンツを無料で利用することは窃盗のように思えるので、そうさせないようにコンテンツを守ろうとする。著作権を主張し、無料で利用することは不当だと訴える。

 しかし、技術革新によってコンテンツをコピーするコストは実質的にゼロになり、稀少だったコンテンツはコモディティと化した。このような時代が来た今、メディアはコンテンツを作るだけではビジネスが成り立たなくなっていると著者は指摘する。コンテンツはもはや最終製品にはなり得ない。コミュニティとその成員に何かを伝えるための手段のひとつとなるだけだ。そしてコンテンツの本質的な価値は、顧客について何か知り、彼らと良好な人間関係を構築するための手段としての価値だ。

 

メディアはコミュニティの支援者になれ

 ジャーナリズムはコンテンツビジネスではない。では何なのか。著者は、ジャーナリズムはサービス業のひとつだと言う。当たり前のことのように思えるが、そうではない。サービスには、必ず何か達成すべき目的がある。ジャーナリズムをサービス業と位置づけたとき、ニュースを作って流して終わりではない。ニュースを流すことで、個人やコミュニティが十分に情報を得て、情報が整理された状態にするという結果が重要になるのだ。

 しかし、ここでツッコミを入れたくなる。技術革新によってすべての人が情報の送り手になり、その情報が容易にコピーされ、それらがインターネットを通じてたちまち拡散していく現在、著者の言うサービス業としてのジャーナリズムは必要なのか。

 著者は必要だと考えている。コミュニティの中の人たちだけのやりとりでは、必要な情報が必ず得られるとは限らないからだ。その観点から、ジャーナリズムは人々に対して、例えば以下のような価値を提供できるのではないかと述べている。

 

・コミュニティの中の誰も答えられないような問いに対し、専門家や関係者に取材するなどして答えを見つけ出す

・断片的、一面的になっている情報をまとまりのあるものにする

・ある情報が社会全体にとってどういう意味を持つのか知らせる

・どの情報が重要なのか、何を信じればいいのか知らせる

・情報の真偽を詳しい調査によって確かめる

・物語や図表やイラスト、映像などを駆使して、難しい情報を理解しやすいものに変える

・人々が自ら詳しい調査をしたいと思ったとき、利用できるデータを提供する

 

 逆に言えば、これらに当てはまらない単純に情報を得るだけの仕事は、できる限り人々の手に委ねるべきだということだ。記者は単に情報を流す仕事から解放され、情報に付加価値をつけることに集中できるようになる。そして、そのようなメディアや記者の役割を、著者はコミュニティの支援者と名づける。

 

人々とメディアの協業関係

 先述のとおり、サービス業としてのジャーナリズムというコンセプトのもとでは、個人やコミュニティが十分に情報を得た状態にするという結果が重要になる。ここで強調すべきことは、ニュースを流すことはその結果をもたらすためのひとつの手段に過ぎないということだ。

 では、そのほかにどのような手段があるだろうか。著者は、人々と協力して情報を収集することもそのひとつだと言う。つまり、メディアと一般の人々が情報交換するためのプラットフォームを構築するのである。メディアとそこで働く記者がコンテンツクリエーターという自意識から自由になれば、顧客に提供する情報を必ずしも自らの手で収集する必要はない。情報は自分たちよりも一般の人々の方に多くあると考えれば、情報の送り手と受け手という非対称な関係ではなく、互いに協業する関係をメディアと人々との間に見出すことができる。

 

「ニュース・エコシステム」の中での協調

 高速印刷の技術が発明されて以降、ジャーナリズムは垂直統合型の産業になった。大規模なメディア企業が何を報道するかを判断し、記事を作成し、提供するまでの全ての過程を支配してきた。ジャーナリズムは寡占もしくは独占事業になっていたのだ。 

 しかし、時代は変わった。今は一般の人々にもコンテンツを作り、多くの人に行き渡らせる手段がある。ニュースの寡占・独占は崩れ、玉石混交、大小様々なニュースの供給源が現れてきている。このようなニュースの生産と流通をめぐる、多様な要素からなる混沌とした環境を、著者は「ニュース・エコシステム」と呼ぶ。

 そしてこれからの時代は、大手メディアも、個人ブロガーも、IT企業も、ニュース・エコシステムのメンバーであるという意識を持ち、協業することが必要だと説く。個々のメンバーが専門分野に特化し、足りないところは他のメンバーに補ってもらう。この分業・協業体制が、メディアにとっては事業の収益性を高め、人々にとっては細やかなニーズに対応する価値の高いサービスが提供されるようになるという点で、合理的だからだ。

 

おわりに

 ここでまとめを終わりたい。今回まとめた部分は本書の議論の根幹であるが、あくまでほんの一部分にすぎない。これ以外にも興味深い議論が多くあるので、よかったらぜひ。