ホンダではなく本田

 

 ミラノダービー

 ミランの本田圭佑がインテルとのミラノダービーで先制アシストを決め、3-0の完勝に貢献し、地元紙からも高い評価を受けている。彼はミランに加入してからというもの、一時期のゴール量産期以外は厳しい批判にさらされ、低迷するチームの中で戦犯扱いを受けてきた。そんな彼がここ最近のアシスト量産で評価を取り戻しているのはすごくうれしい。

 

 本田は「日本人的」?

 ところで、本田はよく「日本人的」ではないと言われる。彼の口から出る強気な言葉の数々は従来の日本人のイメージにあてはまらない。それはイタリア人からしてもそうだし、日本人の目から見ても彼は典型的な日本人像とは異なる存在だ。

しかしここ数日の報道で、私は彼がとても「日本人的」だと思うようになった。

 

 それはイタリア紙のインタビューでのこと。彼は右サイドでのプレーは難しいかと問われ、次のように答えている。

 

「ここ10年ほど、私のポジションはトップ下だった。ミランに来てから、ずっと右サイドをやった。私の考えでは、サイドにはスピードがあり相手を抜くことができる選手がプレーすべきだが、それは私の特徴ではない。」

 

これがイタリアでは、自分の起用法への不満、監督の采配への批判ととられたようだ。

しかしこの本田のコメント、自分に右サイドに必要な特徴がないとは言っているが、右サイドでプレーしたくないとも、右サイドでの起用に不満だとも言っていない。本田にとっては、ポジションの適性がない=プレーしたくないではなかったようで、ミラノダービー後のインタビューで本田はこの件について再び問われ、以下のようにコメントした。

 

「いや、まあ、もともとそんな大量得点するタイプの選手じゃなかった上で、大量得点を目指したり、限界突破をずっと目指してきた選手、というか人間なんで。」

 

限界突破。これが本田のテーマであるようだ。そしてこの発想こそ、本田が極めて日本人的だと思う点だ。

 

 「限界突破」と日本的な働き方

 限界突破という言葉は、日本的な働き方ととてもなじむもののように思える。いままでのポジションの適性の話との関連で考えてみる。

イタリアをはじめ欧米では、ある仕事において適性がないということはその仕事をするべきではないということとほとんど同義である。なぜなら欧米の働き方は、働く側は「職」を選び、雇う側は彼らを「職」で評価するからだ。そのため欧米の人々は自分に適性がある仕事しかしない。そうでないと自分が「正当に」評価されない。

一方、日本では、ある仕事において適性がないからといってその仕事をすべきではないということにはならない。それは日本企業でジョブローテーションによる定期的な配置転換が一般的なことからもうかがえる。日本では欧米とは対照的に、働く側は「会社」を選び、雇う側は彼らを「人」で評価する。そのためジョブローテーションの中で人に経験が蓄積されていくことを日本企業は評価するし、例えば明らかに営業の適性がないような人を営業に配置して経験を積ませてみるというようなことがありうる。

 

 これを踏まえると、自分に適性のない仕事と向き合う中で、選手としての経験を蓄積し幅を広げようとしているという点で、まるで本田は日本のサラリーマンのようだ。イタリアで彼のさきほどの言葉が誤解を生んだのも、こうした日本と欧米での働き方に関する考え方の違いによるものと見ることができる。

本田の言葉がこの件に限らずイタリアの人々からしばしば本意とは異なる形で理解されてしまうのは、翻訳の問題だけでなく、実は彼が極めて日本的で、イタリアの人々とは異なる文脈で言葉を発しているからなのかもしれない。

 

参考
本田アシストで献身「自分の役割はこれをやること」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160201-00000068-nksports-socc

本田「今は多分忍耐を持つべき」/伊紙インタビュー
http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1598731.html

海老原嗣生『日本で働くのは本当に損なのか 日本型キャリアVS欧米型キャリア』、PHPビジネス新書